
今日、8月7日は「ボヤカの戦い(La batalla de Boyacá)」でコロンビアがスペインから独立した日です。
1819年8月7日、今からちょうど200年前の今日でした。
つまり、今年はコロンビアという国が生まれて200年目に当たります。
そこで今日はコロンビアという国が成立するまでのいきさつを、お猿さんでも分かるように話したいと思います。
もともと南米に「コロンビア」という国が存在していたわけではありません(当たり前ですが)。
今の「コロンビア」に当たる南アメリカ大陸の北、上半分くらいはスペインの植民地であり、かつては「ヌエバ・グラナダ副王領」と呼ばれていました。
グラナダ(Granada)はイベリア半島の南にあるスペインの地名です。ザクロの産地で「グラナダ」はスペイン語で「ザクロ」の意味です。
ヌエバ・グラナダは「新しいグラナダ」という意味です。この名前は植民地時代だけでなく、独立後の一時期も使われていました。
「コロンビア」という名称はアメリカ大陸の“発見者”とされるクリストファー・コロンブス(1451?~1506)に由来しています。
この名称を初めて用いたのはベネズエラの革命家フランシスコ・デ・ミランダ(1750~1816)であり、ミランダは北米から南米にかけてのすべてのスペインとポルトガルの植民地をまとめて「コロンビア」というひとつの国として独立させるという壮大な構想を描いていたと言われます。
スペイン人がやってくる前、コロンビアの地には先住民のインディオが住んでいました。
今から1万2千年ほど前、北米から中米を経由してモンゴロイド系のグループが今のコロンビアに入り、一部は定住し、他は南下していきました。
紀元前2000年ごろにはインドネシアから太平洋を渡ってコロンビアに来た人々もいました。
九州の縄文人が今のエクアドル沿岸に流れ着き、縄文土器の文化を伝えたと言います。
また宮崎県の跡江貝塚遺跡からエクアドルのバルディビア土器にそっくりの土器が出土しているので、今から7000年前に日本と南米が交易していたという説もあります。
日本人と南米の先住民は2万1千年~1万4千年前に共通の祖先から分岐したという遺伝子研究の結果も報告されています。
コロンビアの先住民タイロナ族の作った黄金の像は日本の「土偶」にそっくりなのです(写真は首都ボゴタの黄金博物館で撮影)。
16世紀の初め、スペイン人がコロンビアにやってきたとき、コロンビアには600万人ほどのインディオが住んでいたとみられています。
ところが、それから100年もしないうちにインディオの人口は50万人にまで激減してしまいました。
スペイン人が持ち込んだ天然痘や麻疹、インフルエンザ、チフスなどの伝染病に対する免疫を持たなかったためですが、スペイン人は無抵抗のインディオを面白半分に殺しまくりました。
クリストファー・コロンブス
クリストファー・コロンブスが1492年10月12日、サン・サルバドル島(現在のバハマ諸島)にたどり着いた後、スペインによる中南米の植民地化が始まりました。
ご存知のようにコロンブスは「地球が丸い」ことを知っており、ヨーロッパから大西洋を西へ西へと船で進めばインドに行けると思っていました。
当時、欧州ではまだアメリカ大陸の存在は知られておらず、コロンブスが勘違いするのも無理はなかったのですが、コロンブスは死ぬまでアメリカを「インドの一部」だと思い込んでいました。
だから、南米の先住民は「インディオ」と呼ばれたわけです。インドとは何の関係もないっちゅうのに……。
インドから中国、中国から日本に行けると思っていたコロンブスですが、どうも様子が変です。カリブ海の先住民は裸同然で、高度な文明も建築物もなく、体格の貧相な弱々しい人々ばかりでした。
「なんや、こいつら文明人とちゃうやん。未開の土人なんか殺してもかまへん!」
白人の上から目線の差別思想です。彼らにとって南米の先住民は同じ人間ではなく、征服し、虐殺し、奴隷にし、手荒くこき使っても構わない「動物」なのでした。
10万人のインディオがコロンブス率いる220人のスペイン人に「全員殺された」という記録が残っています。
「なんでそんな簡単に殺されたの?」
と疑問に思われるでしょう。
南米の先住民は鉄も馬も車輪も持っていませんでした。犬すらいなかったのです。もちろん、銃や大砲など見たこともなく、武器と言えるものは粗末な弓矢と棍棒(!)くらいのものでした。
インディオたちは鉄製の盾や鎧に身を固め、槍や火縄銃で武装し、馬にまたがり猛犬をけしかけながら突っ込んでくるスペイン人を見て震え上がり、為す術もなく逃げ惑い、片っ端から殺されていくしかなかったのです。
だから、たった220人のスペイン兵が10万人ものインディオを皆殺しにしたとしても不思議ではありません。
平和に暮らしていたインディオはたまったものではありません。歴史の教科書などには「インディオはスペインに抵抗したから殺された」などと書かれることもありますが、とんでもない間違いです。
彼らはほとんど無抵抗で殺されていったのですから……。
ムイスカ人の「黄金の筏」
コロンビアの先住民は中米からやってきたチブチャ族をはじめ、88の部族と200の言語集団がいると言われます。
1525年にカリブ海沿岸のサンタマルタに最初の植民地が建設され、スペイン人は内陸の地に「黄金の王(エル・ドラード)」がいるとの噂を耳にします。
この「黄金伝説」はチブチャ系のムイスカ人の王が、全身に金粉を塗りたくり、グアタビータ湖という湖に金塊やエメラルドを投げ込む、という儀式が発端でした。
グアタビータ湖はボゴタの北57キロに位置し、標高3000メートルのアンデスの高原にある小さな湖です。
隕石が落ちて出来た湖だそうで、スペイン人により発見された当時、湖の幅は約400メートル、水深は100メートルほどありました。
ムイスカ人にとって、この湖は年2回行なわれる聖なる儀式の舞台でした。
父なる太陽と母なる水に感謝し、供物を捧げるのです。全身に金粉を塗りたくった祭司が筏で湖に漕ぎ出し、黄金の細工物やエメラルドなどの宝石と一緒に飛び込んで祈るのです。
土屋はボゴタの黄金博物館で、その儀式の再現を見たことがあります。部屋の中が真っ暗になり、足下のガラス床からまばゆい光を放つ金銀財宝の数々が浮かび上がってくる光景は幻想的であり、神秘的でした。
この儀式の噂がスペイン人に伝わり、
「コロンビアの奥地には黄金の王国がある!」
という“黄金郷伝説”が広まっていったのでした(実際は彼らが期待したほどの黄金はなかったのですが……)。
バルトロメ・デ・ラス・カサス
スペイン人たちの蛮行を告発し続けたカトリック司祭のバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484~1566)も、スペインの征服者(コンキスタドール)はコロンビアで特にひどい悪さをした、と訴えています。
著書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の中で、
「大勢のスペイン人がインディアス各地からこの新グラナダ王国(現在のコロンビア)に蝟集したが、彼らの多くは邪悪かつ残忍な人物で、とくに、人を殺し、血を流すことにかけては札付きの連中であった。(中略)したがって、彼らがこの新グラナダ王国で行なった悪魔のような振る舞いはその内容も量も、じつに凄まじく、また、そのときの状況や特徴からして、あまりにも醜悪かつ由々しいものであったので、それまでに彼ら自身が、またほかのスペイン人が別の地方で行ない、犯してきたじつに多くの、いや、すべての非道な所業をはるかに凌いでいた」
と告発しているほどですから、よっぽど目に余る状況だったのでしょう。
コロンビアの人口の6割はメスティーソ(白人とインディオの混血)ですが、不幸な歴史の産物でもあります。日本でもハーフは美人が多いですが、この国に美男美女が多いのは血塗られた歴史の意外な副産物でしょうか。
さて、インディオを滅ぼした後、スペインはコロンビアを植民地にしましたが、何しろコロンビアは広大です。
日本の3倍強という面積。国土の中央を分断するように走る険しいアンデス山脈。大西洋と太平洋の沿岸は熱帯のジャングルで、国の東側は底なしの泥沼が無限に広がっています。
人間が住めるのはほとんどが沿岸の低地かアンデスの高原で、国中を結ぶ道路などなく、移動はもっぱら馬か船か徒歩でした。
首都ボゴタは国のほぼ真ん中、標高2600メートルのアンデスの高地にあります。
ボゴタの総督府から各地に伝令を飛ばし、指示を与えるだけで何ヵ月かかるか分かりません。自動車も飛行機も電話もメールもない時代です。
そこで、スペインの植民地政府は「エンコミエンダ制」を導入します。
白人の入植者にインディオをエンコメンダール(委託)し、彼らを保護・教化する代わりに税金と労働力を得てもよい、というものです。
インディオの保護を謳ってはいますが、実態は奴隷制です。要するに白人は何をしてもいい、ということです。インディオを生かすも殺すも白人次第でした。
コロンビアのインディオは大人しいチブチャ族のような温和な人種が多かったので、彼らは働き者として重宝され、白人の大農園(アシエンダ)で使役されました。
インディオの人口が減ると、スペインはアフリカから黒人を奴隷として連れてきました。力持ちの彼らは鉱山や農場で酷使されました。
コロンビアは気候温暖で資源豊富な国なので、スペイン統治時代に大きな事件はあまり起きていません。
奴隷の反乱もほとんどなく、奴隷たちは嫌なら逃げ出して人里離れた海沿いや山沿いで暮らすこともできたので、スペイン統治下の約300年間は概ね平和でした。
そんなスペインの支配を揺るがすような最初の大事件は1781年に起きます。
この年の3月、サンタンデール県(コロンビア北部)ソコロ地方で、タバコ税などの値上げや物価高騰に不満を爆発させた人々がついに反乱を起こしたのです。
参加者は2万人に膨れ上がり、コムン(革命委員会)が結成されました。反乱軍の要求は重税撤回から独立にまで膨らみ、慌てたボゴタ副王フローレスはボゴタ郊外シパキラで反乱軍の代表と会見します。
シパキラはボゴタ北方約50キロのアンデス高原にある小さな町。太古の昔に海の底だったのが地殻変動で持ち上がり、海水が地中に閉じ込められて岩塩となり、今もコロンビアの一大製塩地帯となっています。
フローレスは反乱側の要求を呑むふりをし、後に約束を破って指導者ホセ・アントニオ・ガランを捕らえると、見せしめのためボゴタで四つ裂きの刑に処します。
四つ裂き?八つ裂きじゃないの?という方に説明しておくと、馬の脚に手足を別々に縛りつけ、4頭の馬を一斉に走らせ、文字通り体を「四つに裂く」という極刑です。い、痛ぇ……😿
この「コムネーロスの乱」は失敗に終わりましたが、1776年のアメリカ独立、1789年のフランス大革命に影響され、19世紀に入るとコロンビアでも本国スペインからの独立を求める運動が活発になります。
1808年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がスペインに攻め込み、自分の兄・ジョゼフをスペイン国王に擁立すると、本国のだらしなさに絶望し、フランスの傀儡政権に従うことをよしとしない植民地で独立運動が本格化しました。
アントニオ・ナリーニョ
1810年7月20日、アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)がボゴタ副王を追放し、クンディナマルカ共和国の独立を宣言します。
これがコロンビアの独立記念日です。しかし、この時点で、コロンビアは「コロンビア共和国」という一つの国として独立をしたわけではありません。
と言うのは、ここで言う「独立」とは「スペインの植民地政府からクリオーリョ(現地生まれの白人)に実権が移っただけ」であり、国としての統一性や方向性も定まっておらず、とりあえず「独立宣言」をしただけでした。
ボゴタ市の中心部にある「ボリーバル広場」の一角には、独立宣言が行なわれた市庁舎があり、その向かい側に「7月20日博物館」という小さな白塗りの屋敷があります。
ここに独立宣言の原稿が展示されていますが、「独立宣言(ラ・デクラシオン・デ・ラ・インデペンデンシア)」ではなく「革命宣言(アクタ・デ・レボルシオン)」となっています。
この「独立革命宣言」(とでも言いましょうか)が出されてから、コロンビアが名実ともにスペインから独立を勝ち取るまでに10年近い歳月を要するのですが、その紆余曲折の歴史はメチャクチャ長いので、ここでは要約します。
独立宣言後、ヌエバ・グラナダ(つまり今のコロンビア)の独立勢力は足並みが揃わず、スペイン軍による再征服(レコンキスタ)を許してしまい、1810年から1816年までの6年間は「愚かな祖国の時代(パトリア・ボバ)」と呼ばれています。
何故、統一が取れなかったのかと言うと、国の方針の違いでした。要するに集権主義(セントラリスモ)か、連邦主義(フェデラリスモ)かで仲間割れしたのです。
ボゴタの独立に呼応する形で、1811年11月11日、カリブ海沿岸の港湾都市カルタヘナが独立宣言を出します。
カミロ・トーレスを筆頭とする連邦派はカルタヘナなどカリブ海沿岸に多く、対する集権派はアントニオ・ナリーニョを中心としてボゴタなど内陸部に多くいました。
連邦派は、
「これだけ広い国をひとつにまとめるのは無理だし、アメリカみたいに州ごとに権限を与えて、中央政府は干渉すべきではない。その方がうまくいくだろう」
と主張。
一方の集権派は、
「スペインに対抗するため中央政府に強い権限を与え、ひとつの国にまとめる必要がある。今のコロンビアに連邦制は早すぎる」
というものでした。
で、集権制か連邦制かでゴタゴタと揉めているうちに、独立宣言の翌年、1811年には連邦派がボゴタで勝手に「独立宣言」を出してしまい、これに反発した集権派との間で内戦状態に突入してしまいました。
「おいおい、まだスペインから完全独立もしてないうちに何やってんだよ……」
という土屋のツッコミは置いといて、1813年にはナリーニョ率いる集権派軍が連邦軍を撃破します。
その後、スペイン軍の再征服を恐れたコロンビアの独立派は、いったん仲間割れを止め、団結してナリーニョを司令官に立ち向かうのですが、時すでにお寿司(いや、遅し)。内戦でグダグダになっていたコロンビアは、あっという間に再占領されてしまいます。
1810年の独立宣言から6年もの間、コロンビアでは各地でスペインからの独立宣言が出されたり、出されなかったり、出してもお互いに協力せず、それどころか反目し合い、太平洋岸のナリーニョ地方は逆にスペイン側に味方する始末……。
スペインと戦うべき時期に集権派と連邦派に別れて争っていたのでは勝ち目などありません。まさに「愚かな祖国の時代」なのでした。
そうこうしているうちにスペイン本国ではフェルナンド7世が復位し、勇猛なパブロ・モリーリョ将軍率いる1万もの大軍をコロンビアに送り込みます。
まず、1815年8月、カリブ海沿岸のカルタヘナが陥落。カルタヘナ市民は4ヵ月にもわたるスペイン軍の包囲に耐え、よく戦いましたが、ここは熱帯で、しかも雨がほとんど降らないので、市民は飢えと渇きでバタバタ倒れ、マヌエル・カスティーヨという司令官は無能だったので、スペイン王党派の反乱が起こり、6000人もの死者を出して壊滅。
1817年までにコロンビアの全土がスペイン軍によって再征服されてしまいます。
スペインの占領政策はじつに巧妙で、フェルナンド国王は「朕は植民地下層民の味方である」などとリップサービスしてコロンビア下層民の人気を集め、モリーリョ将軍は「全土平定のあかつきには奴隷を解放する」とまで言ってのけたのです。
これではどっちが勝つのか分からず、独立派もスペイン軍に寝返ったり、お互いに足を引っ張り合ったりで、足並みは揃わず、てんでバラバラ。これでは完全独立など夢のまた夢でした。
シモン・ボリーバル
さて、ここで祖国を救う英雄が出てきます。よっ、待ってました!シモン・ボリーバル(1783~1830)の武勇伝を語らずにはいられません。
ベネズエラ生まれの大富豪の御曹司で根っからの革命家ボリーバルは、1812年から祖国ベネズエラで独立戦争を戦っていましたが、いったんカルタヘナから上陸して電撃作戦でククタ(コロンビア北部の国境の町)まで南下したものの、ベネズエラに攻め込んで膠着状態に陥り、1813年から14年までスペイン軍との戦闘は一進一退を繰り返します。
1815年末にはカリブ海のジャマイカに亡命を余儀なくされ、それからハイチに渡ります。ハイチはフランスの植民地でしたが、1804年、黒人奴隷の大反乱でナポレオン軍を追い出し、世界初の黒人国家として独立していました。
ボリーバルはハイチのペティオン大統領から物心両面の支援を得て、再びベネズエラに上陸します。大統領は「独立のあかつきには黒人奴隷を全員解放する」ことを条件に兵員、武器、船などの援助に応じたのです。
1817年から18年にかけ、ボリーバルはベネズエラでスペイン軍と奮戦しますが、なかなか決定的な勝利を収めることができません。そこで考えます。
ここまでの戦いは、あくまでもスペイン政府と植民地クリオーリョの戦いでした。同じ白人同士が戦うのです。クリオーリョはペニンスラール(本国生まれの白人)から差別されていたので、積年の恨みがあります。彼らの独立心は旺盛ですが、白人同士の戦いに混血やインディオ、黒人奴隷など下層民は基本的に無関心でした。
ボリーバルが目をつけたのは、まさにここです。そうだ。俺たち白人だけで戦っていたのではダメだ。下層民を味方につけなければ……。
革命の原動力は富も権力も持たない無名の人民です。さすがボリーバル、目の付け所が違いました。ロシア革命より100年も早く人民を味方につけた革命戦争を始めたのです。
すでにスペイン政府は「コロンビア・レコンキスタ(再占領)後の奴隷解放」を約束していました。ゆえに奴隷たちは独立戦争には参加せず、少なくとも1815年頃まではスペイン本国政府を支持していました。
ところが、こんな口約束は所詮、反故の紙切れと同じ。レコンキスタ後も何も起きません。畜生!やっぱりウソだった!かくなる上は……。
スペインに裏切られたという怒り。戦争で家族を奪われた憎しみ。彼らが立ち上がるのに手間暇はいりません。ここにようやくクリオーリョと下層民の利害が一致したのです。
ボリーバルは奴隷たちを仲間に引き入れ、彼らに「独立後の解放」を約束します。奴隷身分から解放し、土地を与えるという約束は魅力的でした。彼らは喜び勇んで解放軍に参加します。
解放軍は肌の白い司令官に混じって肌の浅黒い将校や黒人の下士官がいます。奴隷たちは裸足で、ほとんど裸同然でしたが、じつに勇猛果敢に戦いました。
後に土地の約束は大地主たちの反対に遭って頓挫してしまうのですが、彼らの勇敢さを伝えるこんなエピソードをご紹介しましょう。
フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール
1819年7月25日、ボリーバル将軍の率いるコロンビア・ベネズエラ解放勢力連合軍は、アンデス山脈東部のバルガス沼(コロンビア中部)で宗主国スペイン帝国の軍勢に遭遇しました。
この年の2月26日、ベネズエラ側から始まったボリーバル将軍のコロンビア解放戦争は、ベネズエラとコロンビアの国境にまたがるジャノス・オリエンターレス(東部平原)と呼ばれる広大な湿地帯を踏破し、その先にそびえ立つ標高4000メートル級のオリエンタル(東部)山脈を乗り越えることから始まりました。
そして、多くの犠牲者を出しながらもボリーバルの一行は「アンデス越え」に成功しました。
バルガス沼はボリーバル率いる解放軍が命がけでよじ登った東部山系を下ったところの西側にある沼です。
沼と言っても、雨季に水たまりができるだけの草原で、何もない田舎の僻地です。
このバルガス沼で、ボリーバル率いる2500名の兵は、ホセ・マリア・バレイロ将軍率いる3500名のスペイン軍と対峙します。
解放軍と言っても、実態は農民と奴隷の寄せ集めに過ぎません。指揮官はクリオーリョでしたが、副官のフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍(1792~1840)を含め、ごく少数でした。
バレイロ将軍はナポレオン戦争でフランス軍と戦い、スペインの独立に貢献した勇将です。この時、わずか25歳の若さ。色白のイケメンでした。
「なんのこれしき、ボリーバルの百姓兵など、馬蹄にかけて蹴散らしてくれるわ!」
と意気込みも高く、バルガス沼での戦闘は熾烈なものになりました。
解放軍の兵士は靴もなく、裸足です。て言うか、まともな服も着ていません。
この時代の銃はマスケットです。火縄銃に毛が生えたような武器です。連射はできません。弾込めに時間がかかるので、一発撃ったら、次弾を込めず、銃剣をつけて敵陣に突撃するのです。
至近距離での威力はショットガン並みですが、少し離れれば命中率はガクンと下がり、ほとんど当たりません。だから、白兵戦が主流です。
見る見るうちに戦局は悪化し、ボリーバルの解放軍は全滅寸前に追い込まれました。
「これでコロンビア独立も、こんなところではかない夢と消えるのか。無念……」
小高い丘の上から指揮を執っていたボリーバルは唇を噛み締め、絶望の淵に立たされました。
その時、解放軍の騎兵隊を率いるフアン・ホセ・ロンドン大佐が名乗り出ました。
「閣下!私に突撃を命じてください!私には14人の勇敢な部下がいます!」
ボリーバル将軍は若きロンドン大佐の肩をつかみ、燃えるような目で言い聞かせます。
「大佐!祖国を救うのだ!この戦いは君の腕ひとつにかかっている!困難を恐れるな!強さのないところに徳はなく、勇気のないところに栄光はないのだ!さあ、行け!行って死んでこい!!」
ボリーバルに叱咤激励され、ロンドン大佐、わずか14人の部下を従え、勇猛果敢な15人の騎兵隊は槍(!)を手にスペイン軍の野営陣地に突入していきました。
すっかり慢心して気が緩んでいたスペイン軍本隊は大混乱に陥ります。まさか、裸同然の騎兵隊が捨て身で奇襲をかけてくるとは思わなかったのです。
芋の子を洗うような大混戦になりました。この戦闘で突撃隊の14人は大半が壮絶な戦死を遂げ、かろうじて生き残ったロンドン大佐も満身創痍の重傷でした。
バルガス沼の戦いで辛勝した解放軍は、13日後の8月7日、ボゴタ郊外のボヤカ高原で、バレイロ将軍率いるスペイン軍と最後の戦いに挑み、コロンビアは281年にもわたるスペインの植民地支配に終止符を打ったのでした。
バルガス沼の戦いモニュメント
現在、バルガス沼の戦跡は観光地になっています。
広大な展望台の中央に、ロンドン大佐率いる槍部隊(Lanceros)14人の勇壮な姿が、凄愴なブロンズ像で再現されています。
天に向かってそびえ立つ柱に沿って、15頭の裸馬が疾駆し、馬にまたがるLancerosたちはほとんど素っ裸で、手には4メートルはあろうかという長い槍を振りかざしています。
中には体を突き刺されたLancerosの像もあります。壮絶な迫力を持つこの銅像は、ロドリゴ・アレナス・ベタンクールというコロンビアの彫刻家の力作です。
元コロンビア大使で、イラン大使やアルゼンチン大使を歴任した藤本芳男氏は、「世界の戦跡でこれほど勇壮な彫像を見たことはない」と評しています。
ボヤカの戦いでのスペイン軍側の死傷者250名(死者100、負傷150)に対し、解放軍側の死傷者はわずかに66名(死者13、負傷53)という驚くべきものでした。
解放軍は8月10日、ボゴタを制圧し、コロンビア共和国の独立を宣言(ここで言う「コロンビア」は今のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマ及びブラジルとペルーの一部を含む「大コロンビア」という巨大な国家です)。
1810年7月20日の独立宣言から10年近くにも及んだ戦争は、当時のコロンビアの総人口130万人の1割強にあたる10万~15万人もの死者(成人男性の2人に1人が戦死した計算)を出し、多くの血と涙の上に成し遂げられたのでした。
スペイン軍を率いたホセ・マリア・バレイロ将軍らは捕らえられ、3世紀にわたるスペインの蛮行に対する報復として、10月11日、ボゴタにおいて処刑されました。
捕虜の中には解放軍に参加しながらスペイン軍に寝返った裏切り者も含まれており、ボリーバルは彼らを「銃殺に値しない卑怯者」として絞首刑に処したのです。
スペイン軍の全滅を知ったボゴタ副王フアン・サマーノはインディオに変装し、カリブ海沿岸のカルタヘナに逃げ出しました。
彼が残していった50万ペソの大金は解放軍の手に渡り、兵士たちに平等に分配されたのでした。
コロンビアの独立によりスペインは南米北部の要衝を失い、その後、南米諸国は次々に独立を勝ち取ることになります。
解放軍を率いた最高司令官ボリーバル将軍は大コロンビアの初代大統領に、副官サンタンデール将軍は初代副大統領に就任しました。
時にボリーバルは36歳、サンタンデールは27歳という若さでした。
(文責・土屋正裕)
Author:土屋正裕
1980年東京都生まれ。ひょんなことから南米コロンビアと関わるようになる。尊敬する人物は南米の解放者シモン・ボリーバルとコロンビアの初代大統領フランシスコ・サンタンデール。
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